三浦春馬氏は自殺か、他殺か?

偽装殺人は簡単

2020年7月18日、各メディアは、三浦春馬氏が自殺したかのようなニュースを一斉に報道した。それら各社の第一報は、次の骨子で構成された。

  • 三浦氏は、仕事の予定があるのに、仕事場に現れなかった。
  • 仕事の関係者が三浦氏の自宅を訪れたところ、三浦氏がクローゼットの中で首を吊っているのを発見した。
  • 三浦氏は、搬送先の病院に搬送され、死亡が確認された。
  • 室内には遺書のようなものがあった。
  • (警察は)自殺とみている。

なお、この記事は、三浦氏のケースを、個別の事案として掘り下げるのではなく、社会全体の問題を考えるための一つの具体例として扱っています。

殺人に関わらず、報道される犯罪は、全体の一部、あるいは氷山の一角に過ぎない。水面下では、多くの犯罪常習者がうごめいている。捜査や検挙どころか、事件扱いさえされないケースがあまりにも多い問題を指摘したい。

警察は遺書さえあれば自殺を推定する

仕事が減少に悩んで自殺する芸能人は少なくないが、人気絶頂の芸能人の自殺に首を傾げているのは、私だけではないはずだ。おそらく、報道を受け取ったひとたちの多くが、他殺を疑っていることだろう。

一方、芸能人や職業コメンテーター等、実名で活躍するテレビ人たちは、決してキナ臭い場所に足を踏み入れることはない。そうして、テレビでは、自殺を疑うコメントが封印される。

多くのファンが、警察が捜査をしないことに不満を感じたとしても、捜査する以前の段階において、事件ではなく、自殺として処理されることになるだろう。これは、尾崎豊氏が他界した時と同じだ。三浦春馬氏のケースが尾崎豊氏のケースと異なるのは、警察が捜査をしない理由が「遺書のようなもの」の存在にあることだ。

次に三浦春馬氏のケースから離れ、私の極めて近い場所でおきた自殺偽装殺人について触れる。三浦春馬氏のケースと類似点も多いので、ケーススタディとしたい。

近縁者の自殺偽装殺人

2015年、私の直属の上司(当時の専務)は、首吊り自殺に見せかけて殺害された。専務は、創業社長の子息であり、次期社長となる予定であった。

当時、私は、自身の道路交通法違反を神奈川県警と争っていた。多くの人は笑うかもしれないが、私には社会正義の動機があった。

罪を認めて罰金払えば終わる程度の速度違反なので、普通の会社員はそれを争ったりしない。私はそれを否認し、最高裁まで争った。関連する裁判は、多いときで5つをかかえた。

裁判の期日前には、無理がたたって、遅刻が目に余るほどになった。遅刻以外にも、大きな悪影響を仕事に及ぼすようになった。専務は、私が刑事事件を争うことに同意はしないが、私が争う理由に一定の理解を示してくれた。そして、私の裁判が終結するまでを黙認してくれた。

最高裁への上告が棄却されたしばらく後、会社で専務が亡くなったことを知らされた。「遺書のようなもの」が残されていたので、警察は、事件ではなく、自殺として処理した。

しかし、親族である社長は、それが専務自らが書いたことを疑っていた。「遺書のようなもの」には、自殺することが宣言されていながら、その動機があまりにも薄弱だったからだ。

社内外に対し、専務は自殺ではなく、心不全で他界したとして扱われた。ただし、社長は、独自に捜査を依頼していたらしい。依頼先がどこなのかは知らない。

殺人天国(テレビ上 / 現実の犯罪情勢)

専務の他界により、私は社内の擁護者を失い、その年の秋を待たずに退職した。

冬を迎え、私生活にささやかなゆとりを取り戻しつつあるとき、川崎市内の老人ホームで起きた3人の老人の転落死が「他殺ではないか?」と指摘され、ニュースとなった。わずか1ヵ月程度の短い期間に、3人が同じ場所に転落死した事件だ。誰が見ても不自然で、事件性を感じざるを得ないケースなのに、事件から半年たって他殺疑惑が報道されるようになるまで、警察はそれを事件としなかった。

そのニュースに刺激され、私は「殺人天国」をまとめた。「殺人天国」では、ええかっこしいばかりの警察広報と、その裏側の不幸な現実を対比させたつもりだ。

事故や自殺を偽装した殺人が蔓延している可能性について

近親者の推察する事実

専務のケースにおいて、親族らが他殺の可能性を申し立てたとしても、警察が事件として扱ったかどうかは疑問だ。殺人天国に示した通り、事件である可能性があるのに、警察が事件にしない自殺や事故死や行方不明者の数が、あまりにも多いからだ。

それに専務のケースにおいては、対外的には心不全で他界したことにするため、事件扱いされることを社長も望まなかった。

対外的には世間体を取り繕う方策が採られたが、親族として見立てた事実は以下のとおりであった。

  1. 専務は、何らかの弱みを犯人らに握られた。
  2. 犯人らは、専務の弱みを揺すり、数百万の現金を持ってホテルに来るように指示した。
  3. 専務が現金を渡した後、犯人らは、専務にメモ用紙を渡し、指示した文を書かせた。
  4. 犯人らは、首吊り自殺を偽装して、専務を殺害した。

犯人らが指示した文を書かせるのは、「遺書のようなもの」を本人の筆跡とするためだ。

犯罪者の常套手段

犯罪を恒常的に犯すものたちは、遺書があれば、警察が捜査をしないことを知っている。遺書の存在は、警察運営の省力化にとっても望ましいことである。なぜなら、認知数を増やさずに済むからだ。結果、検挙数を下げずに済ませられる。

警察発表に対するテレビの遠慮

三浦春馬氏の死亡が自殺として報道された後の3日間を私が観察する限りにおいて、テレビに出演する芸能人はもちろん、職業コメンテーターや法律の専門家においてさえ、他殺を疑う言葉を決して口にしようとしなかった。

歯に衣着せぬ物言いが売りの玉川徹氏は、事件後7月20日の羽鳥慎一モーニングショーにおいて、個別の事案として具体的なコメントすることさえしなかった。同番組の元財務官僚で日米の弁護士資格を持つ山口真由氏も、(警察発表の)自殺を事実として扱うばかりだった。

娯楽番組はさておき、ニュース番組が、警察発表(主たる情報源が警察)に遠慮する様は異常だ。週刊誌が1週間遅れて疑惑を指摘していた時代は昔、今はネットメディアやSNSがリアルタイムで疑惑を指摘する時代になっているから、テレビ人らの腫物に触るような扱いが気色悪いほどだ。

警察発表に対するテレビのささやかな反発?

Yahoo!ニュースで「三浦春馬さん「自殺」でテレビ報道の”ガイドライン違反”が続々!」との記事がある。タイトルに「首吊り」の文字を使うことが放送ガイドラインに反するとの指摘記事である。

ガイドライン違反であることを知りながら、不自然な死を自殺として報道しなければならないことに対する、テレビの健全な反発であることを期待したい。

なお、三浦春馬氏のケースにおいて、警察が「他殺を疑うな」とテレビ局を指示しているわけではない。

各テレビ局のすべての番組、すべての出演者の足並みが揃ってしまうのは、放送法第4条を親に持つ放送ガイドラインがあるからだ。

放送法の呪縛

テレビでは、言いたいことが言えない――

ニュースステーションの久米宏氏、報道ステーションの古舘伊知郎氏の両氏が、番組を降板したずっと後にこんな同じようなことを言っていた。

放送法の縛りがあるから、テレビは新聞や週刊誌のようなことができない――

テレビの政治的中立性が問われた『忖度(そんたく)』の問題に対し、池上彰氏は、放送法の縛りによるテレビの限界を示した。

政治的公平性の呪縛

かつての総務大臣、高市早苗氏は、放送法第4条と電波事業法を根拠として、電波停止を命じる可能性に言及した。この時に問題とされたのは、『政治的な公平性』である。

なお、大臣(内閣)と中央省庁との間に発生している問題について、国家の正体を確認してほしい。

ここで、放送法第4条の条文を確認しよう。

放送法第4条

  1. 公安及び善良な風俗を害しないこと。
  2. 政治的に公平であること。
  3. 報道は事実をまげないですること。
  4. 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

民法第90条が「公序良俗」、つまり、公共の秩序と善良な風俗であるのに対し、放送法第4条は「公安および善良な風俗」となっていることに注目してほしい。

総務大臣であった高市早苗氏が、テレビ局に対し、電波停止を命じる可能性に言及したのは、『政治的に公平(であること)』が根拠である。そして、『政治的に公平(であること)』より優先順位の高い『公安(を害しないこと)』に対しても、とうぜん電波停止が命じられる可能性が存在する。

では、『公安(を害しないこと)』に示される、「公安」とはいったい何だろう。

公安(を害しないこと)の呪縛

抽象的ではあるものの「公共の秩序」と「善良な風俗」を否定する人はいない。一方、「公安」の意味するものは、だいぶ趣が違う。「公安」とは、公共の安全の意である。公共には、現体制下における現状であることを含んでいる。

そして、公安警察は、政治犯・テロリストなど、反社会的な活動を取り締まる役割を担っている。なお、「反社会的」という言葉には、現体制下における現社会に反する行為であることを含んでいる。

「治安」は、「公安」とほぼ同義語として使われている。戦時中に存在した治安維持法によって、反戦思想が厳しく取り締まられたのは、反戦思想が国の意向に沿わない、すなわち「反社会的」であったからだ。

予想できる公安の呪縛(放送法第4条第1項の呪縛)を分かりやすく書くと、次の通り。

公安(を害さないこと)の呪縛

公安(治安維持)のために、民衆に不安や疑念を抱かせるような報道をしてはならない。

※犯罪は正確に把握され、殺人事件等の重要犯罪は概ね100%解決していることを前提としている。

「公安(治安維持)」の問題は、少しわかりにくいかもしれないが、同類の問題として、香港市民に対する弾圧が、連日のように報道されている。

国家安全を目的とした権力の発動

一国二制度により民主主義だった香港が、香港国家安全維持法の施行により中国に飲み込まれようとしている。そして、中国の体制を批判していた民主活動家らは、活動を止めたり、亡命を余儀なくされたりしている。

2019年の香港の民主化デモ以降のニュースが示す通り、中国政府が「報道の自由」や「表現の自由」を制約する根拠は「国家安全」である。「公安」の公共が、現体制下における現状(の安全)を示すのに対し、「国家」そのものの安全を全面に出しているので分かりやすい。

なお、中国が「国家(安全)」を使うのは、人民民主独裁を国体としており、「公共の〜」といった国民主権の建て前に配慮する必要がないからだ。

官僚機構の安泰のための権力発動

香港とは別の要因で民主主義が形骸化しつつある日本において、「公共」は体裁目的で使われている言葉に過ぎない。

そもそも、日本は、民主主義国家ではなく、実質的には社会主義国家であるとの指摘がある。

官僚機構が国家を象り、一過性の時の内閣に表向きの国民主権を演じさせる。決して官僚機構それぞれが司る『岩盤』には手を入れさせない。

しばしば政治家が「私が岩盤規制を改革する!」と勇むのは、そこが官僚機構の聖域であるからだ。改革が困難な聖域に踏み込む勇気をアピールしているのである。

官僚主権の現実

聖域の最たる官僚機構が、司法を担う警察庁と法務省である。日本の司法制度が時代おくれであることは、常々指摘されつづけてきた。そうした指摘を頑なに拒絶し、民主的コントロールの効かない司法制度が現在も作動している。

時代おくれの刑事司法

「公安(ないし国家安全)」を目的とした弾圧が日本でも起きる可能性を指摘しているのではありません。指摘したいのは、「公安(ないし国家安全)」が、体制を維持するための方便となり得るということだ。縦割りの官僚機構において、方便は、官僚機構の利益のために利用される。

つまり、放送法第4条は、官僚機構を防衛するための条文として機能し得るのである。

捜査する犯罪を取捨選択する利権

殺人天国では、「警察が殺人事件の匂いに蓋をしている」ことを統計的根拠を添えて示した。

警察が手間のかかる事件の認知数を減らし、検挙が容易な事件を増やしたがるのは、警察庁が警察力の配分をコントロールしようとするからだ。そして明らかなのは、交通分野への偏重過多だ。

交通への偏重

処理が簡単で予算拡大が容易な交通事案ばかりに力を注ぐあまり、捜査が困難で予算拡大につながらない事件は、相対的におそまつに扱われている。

殺人事件においても、抽象的に立派な捜査をしていることが広報される反面、統計操作を指摘されても仕方のない状況が存在する。そうして警察が見て見ぬふりをする水面下では、犯罪の常習者にとっては犯罪天国の状態となっている。

有名人であっても、死因への疑惑が指摘されても、警察判断は変わらない

尾崎豊氏のケースでは、体が傷だらけであったにもかかわらず、警察は「事件性なし」と判断し、不慮の事故として処理した。2年後、10万人のファンが再捜査を求める署名を警察に提出したが、受理されなかった。

警察は、尾崎豊氏を不慮の事故、三浦春馬氏を自殺と判断した。共通するのは、他殺を疑わせる状況証拠があるのに、まともな捜査がなされないことだ。

警察は、「犯罪の受付」段階において、世間が大騒ぎする事案さえ、「事件性なし」と一蹴している。その一方、大きな網を使ってまでの些細な交通違反の取締りに恐ろしく熱心だ。それが可能なのは、交通事故が、ニュースとして、極めて理解されやすいからだ。それに輪をかけて、プロパガンダ紛いの警察広報に凄まじいまでの費用が注がれている

テレビと警察と利益誘導

インパクトはあっても、ニュースとして流す価値のない海外の『衝撃映像』を、ニュース番組がオープニングに使うのは、刺激的な掴みで視聴率を維持するためだ。

警察とテレビに共通するのは、利益のために報道対象を選択していることだ。テレビは視聴率維持、警察は注力したい分野を目立たせることによって、警察力の配分をコントロールできるようになる。

ちなみに警察の捜査権を補完するはずの告訴・告発に対し、警察は受け取り拒否を乱発している。検察の不起訴を補うはずの検察審査会も、それが有効に機能しているかというと、はなはだ疑問だ。つまり、警察の捜査権と検察の公訴権は、双方とも民主的な関与を受けずに運用されているといえる。

尾崎豊氏のケースで、再捜査を求める署名が受理されなかったのは、警察が民主的なコントロールを拒絶しているからだ。同様に、三浦春馬氏のケースが、週刊誌やネット上で、今後どれほどの疑惑が報道されたとしても、警察が動くことはないだろう。

民主的コントロールを拒絶する警察

個別具体的なケースについて、どんな議論があろうと、警察は変わらない。個別具体的なケースは、組織の末端の警察官が扱うものであり、その扱い方を組織が細かく決めているからだ。

コロナ渦であるにも関わらず、夏の交通安全運動を例年通り開催し、どうでもいい些細な交通違反の取り締まりを現場の警察官に強いているのは、霞が関の警察官僚である。

警察官僚たちは、霞が関の高層ビルの上層階で、下々の意見を聞くこともなく、お仕事をしている。

公安委員会の存在によって、民主的コントロールを排除しているので、外部から仕事の方向性を指摘されることもない。

警察主家を可能にする公安委員会
公安委員会の存在によって、警察は民主的コントロールを拒絶している

検挙率を高く見せるための統計操作

警察は、発生する殺人事件の検挙率がほぼ100%であることを、犯罪統計として発表してきた。

警察発表による殺人事件の認知件数と検挙率の推移

一方、元監察医で法医学者の上野正彦氏の著作物によって、死因究明が杜撰(ずさん)であることの問題は、次第に明らかになっていった。

上野氏の著書のタイトル「自殺の9割は他殺である」が示すとおり、犯罪統計の分母を警察がちゃんと見ようとしない問題が内包されている。

認知数を減らせば、検挙率は上がる

警察が現実と向き合うことに背を向け、虚飾の統計で大活躍(高い検挙率)をアピールする裏側では、捜査の対象にさえならない犯罪者たちが笑っている。

虚飾の犯罪統計に対する黙示録

三浦春馬氏のケースを具体例として、犯罪の可能性のある死体に対し、誰がどのような手順で犯罪性の有無を判断しているのか、問題はどこにあるのか、さらに詳細を考察した。

 

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