権力というメス
医者のジレンマ
かつて僕は、アメリカ製の手術機器を外科医に売る営業マンだった。仕事上、様々なドクターの手術に、何百回も立会った。
ある救命救急医に新製品をすすめた時、ドクターは「野村君の器械を使える患者がいる」と言った。僕が期待を持って次の訪問に望むと、ドクターは開口一番「あの患者、死んじゃったよ」と、あっけらかんに答えた。
もちろん遺族の前では弔意を示すものの、ドクターが患者の死をまともに受け止めていたら、仕事は務まらない。年間120万人の死者の過半数が、病院で最後を遂げるからだ。
医療の仕事に従事した7年間で、僕がもっとも尊敬していたドクターは、集中してるときと、気を抜いているときの落差の大きな外科医だった
ある日、「めしに付き合え」と言われ、ふたりでメキシコ料理店に行った。カウンターに座り、その向こうで揺らめく炎に炙られる肉を見ながら、いつも聞き役の僕は、いつものようにドクターの話しに耳を傾けた。
その日は、ずいぶん長くその店にいた。そのなかで、ドクターは、ある患者を手術中に亡くしたこと、その原因が自分のミスにあって、それを遺族に伝えたことを僕に語ってくれた。
術中死(手術中の死亡)は、外科医にとって避けなけばならない事態だ。しかしながら、手術中の予期せぬ出血等で、患者が危機に陥ることは少なくない。
そんなとき、僕は、手術室から外に出るよう促される。僕の商品は、いわば医者の刀のようなモノであって、生命維持装置ではないからだ。
もし、患者の危機が大事に至った場合、それを自分のミスにするか否かはドクター次第である。なぜなら、手術室が密室であるため、外に出す情報をコントロールできるからだ。そして、医者とそれ以外とに圧倒的な知識差があり、医者が与える情報を遺族は理解できない。このふたつが、医療ミスが公にならない要因のすべてだ。
現実には、医者のミスと不可抗力のグレーゾーンで患者が亡くなることは決して珍しいことではない。それなのに、ミス、ないし、その可能性を、医者が自ら遺族に伝えるということは、皆無に等しいのである。
ほとんどのドクターがそうする理由は、手術室の外で待つ患者の家族に「手術は失敗しました」と言うことが許されないからだ。
大衆娯楽のセオリー
さて、テレビドラマや映画において、医者と刑事・警察官は常にヒーローだ。
身体の病巣/社会の病巣という違いはあれど、悪性の対象物を除去(または正常化)する行為は、誰もが理解できる正義のストーリーである。
そして、これら正義のストーリーは、男の子向けのヒーローもの、女の子向けの王子様もの、中高齢者向けの水戸黄門や鬼平犯科帳にも通じている。
取締りのパラドックス
「取締りの効果で事故が減った」
こんな警察広報は、暗に次のことをアピールしている。
「取締りによって、健全な道路社会が保たれている」
いわば社会のドクターを自演し、それを自画自賛しているようなものだ。
しかしながら、社会の秩序を担うのは、刑事司法制度であって、警察組織だけで成り立っているわけではない。警察がするのは、検察に書類を送るところまでだ。警察は、ことさら、取締りの効果をアピールしているが、それは医療行為でいう検査に過ぎないのである。
もちろん、医療においても検査は重要なのであるが、警察のする検査(取締り)は、極めて検査の基準が低いので、多くの人が引っかかってしまう。そして、検査にひっかかった人に対し、警察がするのは、罰を課すことだけだ。
「今月も県内で*人が亡くなっている。だから、厳しく取り締まるんだ」
警察は、死亡事例ばかりを持ち出し、厳しい検査(取締り)を正当化している。しかし、僕の目に見える警察の検査(取締り)は、必要のないものがほとんどだ。
まるで、ちょっと規定値を超えた高血圧や肥満に対し、次々に罰を課しているようなものである。
そして、ドクターが患者の死と向き合っていては勤まらないのに対し、警察官は悲惨な事故に向き合っていることばかりを強調している。
僕には、要らぬ検査(取締り)を正当化するために、警察官が悲惨な事故を利用しているようにしか見えない。
そして今日も、死亡事例を前面に押し出した警察広報が繰り広げられている。
そうして、絵空事のような規制と、正義のない取締りが正当化されている。
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