弁護士と打合せ2回目

起訴されてから、高知白バイ衝突死事件に関するネット上の記事をあれこれ見た。事故発生当初からテレビで報道されたにも関わらず、被告人に有利な証拠は採用されず、罪を認めないと、「反省していない」と罪を重くされてしまう。警察と検察、そして裁判所が一体となった冤罪量産システムを象徴する事件だ。程度の違いはあれ、私の業務上過失傷害事件も同じようなものだ。

高知の事件では、事故の相手が警察官であったことばかりにフォーカスされがちであるが、相手が白バイでなくても、警察は常に大きい車両、この件ではバスを悪者にする。そして裁判官は、汚れ役をはたした捜査機関を壇上から指示するだけだ。

「相手がケガしたんだからお前が悪い」

これが交通事故処理における警察論理である。そして、極一部の例外を除き、当事者の話しを聞いて調書にするだけで、捜査といえるような作業はしない。警察がつくる事故統計で示したとおり、単純な事故なら「誰が悪者か」を現場の警察官が決めてしまう。クルマとオートバイの事故なら、例外なく、クルマが第一当事者、オートバイが第二当事者とされる。しかも捜査どころか、点数の大きな違反を事故の原因にするだけに過ぎない。加害者が争うようなら、警察に都合のいい目撃者が現れるのを待つだけだ。そして、高知の事件がそうであったように、警察は目撃者を取捨選択している。

警察の交通捜査が、そんな程度であることは、交通事故の当事者になった経験が2~3度あれば、誰もが感覚的に気付くはずだ。ただし、恐怖に訴える論証の効果によって、誰も「本当のこと」を公の場で言うことはできない。そして、検察は常に警察を追認・補完するだけだ。そして、裁判所は検察が連れてきた「悪人」に対し、次々に法的制裁を課すだけだ。検察の描くストーリーを否認し、争うと、それだけで罪を重くされてしまう。これが冤罪量産システムの枢軸だ。だから、多くの人が「本当のこと」を言おうとせず、自分の損得のために、検察のストーリーを認め、裁判官に頭を垂れるのである。

閑話休題。前回に弁護人が求めた弁論方針に対する私の考えを伝えた。それは、情状酌量、つまり、裁判官の寛大なる取り計らいに期待し、8割裁定をもらうという方針だ。背に腹は変えられないとはいえ、裁判所に泣かされた経験がある身にとっては、屈辱的な選択だ。

前の刑事事件のときも、裁判所に「弁護士はいらない」と強弁し、 ついた国選弁護人の専門能力に愛想をつかし、 控訴審も上告審も弁護士の書く“書類”よりも、自分自身の主張ばかりに心を奪われた。

しかしながら、裁判所が被告人の主張を読まず、弁護人の意見だけで裁定を進めたことから、今回は弁護人を介して主張することにした。

弁護人は余計な主張をしないことを薦めたが、私は「先生のいうことを聞かずに余計な主張をして刑務所に行くことになっても構わない」と言い、 せめてもの主張として、速度規制の合理性に対する指摘を織り込むよう求めた。

打ち合わせの結果、私が書いた上申書を元に、次の証拠で弁護人が弁論要旨を書くこととした。

超音波車両感知器の速度データの集計

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執筆者プロフィール

野村 一也
ライター
 創世カウンシル代表

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刑事事件訴訟

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