「事故を起こした!」のアングリフ
誰もが知っている刑事司法制度
「私たちがするのは捜査。決めるのは裁判所」
これは、刑事ドラマの主人公らが、労をねぎらいあうシーンに使われる。このセリフが示す通り、ニュースとして報道される捜査段階においては、疑うに足る証拠が揃ったに過ぎない。犯罪なのか否か決めるのは裁判官である。なお、犯罪者が罰せられるのは、裁判所が有罪判決を出した後である。
「殺意があったのか、と聞かれても認めるんじゃないぞ。」
これは、殺人事件の被告人に向けて弁護士が言うセリフだ。このセリフが示す通り、殺人なのか、過失致死なのかの分岐点は『殺意の有無』である。
こうしたテレビや映画の影響もあり、誰もが警察が捜査段階でしてはいけないことを知っている。また、犯罪が意図されたものか否かによって、扱いが変わることも知っている。
だから、捜査機関が被疑者の所業を決め付けるような表現を使うことは、本来あってはならないことだ。とうぜん、被疑者を懲罰的に扱うことも許されていない。
交通事故はアクシデントに過ぎない
殺す意思を持って相手にクルマを衝突させるケースを除けば、加害者扱いされる側にとっても、事故は不本意なアクシデントに過ぎない。つまり交通事故は、当事者の意思にかかわらず発生してしまうものである。それは無免許や飲酒運転のケースであっても同様である。
意図を持って為された行為/意図を持たないのに至った結果
「目玉焼きが焦げた」
「目玉焼きを焦がした」
交通事故と同様、だれも目玉焼きを焦がそうとは思わない。それでも焦がしてしまうことはある。そして当事者は「焦げちゃった」と言う。
「焦がしちゃった」という言い方は、自分の不注意を清く認める場合に使われる。当人は、決して焦がす意図を持って調理したわけではない。これを第三者が「焦がした」と言うなら、よほど気の置けない間柄でない限り、そこには相手への敵意が存在する。
同様に「事故を起こした」という言い回しは、当事者が自身に責任があることを潔く認めるときにのみ使う言葉である。第三者が「〇〇が事故を起こした」と言うべきではない。雑談レベルならさておき、少なくとも報道で使うべき言い回しではない。
視聴者に吹きかけるテレビ
キャスターがひとりニュースを読む昔ながらのニュース番組はさておき、複数の出演者らで構成される情報番組や情報バラエティにおいて、テレビは「事故を起こした」という表現をとうぜんのように使っている。
リポーターは遠慮なく「事故を起こした」と言い放ち、再現VTRでも「事故を起こした」とアナウンスされる。そして、出演した芸能人コメンテーターらは、それを激しく非難する。テレビの影響力を鑑みれば、現代日本における『市中引き廻しの刑』だと言える。
先に揚げた原理原則を繰り返すと、捜査段階における被疑者の所業を決め付けるような表現を使うことはあってはならないことである。捜査をする警察はもちろん、それを報道する際も同じだ。
上記表中「警察特番における正義の警察官の演出」では、交番やパトカー内部の隠し撮りがよく流される。あまりにも数が多いので、見せられる方が麻痺してしまっているが、とうてい許されることではない。モザイクを掛ければ、無許可で撮影し、それをテレビで報道してよいはずがない。
なお、日本は、捜査手法が後進的であることから、国連人権委員会から取り調べの録画を勧告されている。この基本的人権を守るための録画を先送りでごまかしてながら、その一方で、基本的人権をおびやかす録画をテレビ局に許し、それをテレビで放映させているのだから始末におえない。
吉澤ひとみ氏のケース
–作成途中–
テレビによる連日の袋だたき報道は見るに堪えない。そこに警察は「吉澤氏は事故直前に時速86キロで走行」という情報をマスメディアにリークした。本来明らかにすべきではない捜査情報のうち、被疑者に不利な部分だけをリークしたといえる。これは、火に油を注ぐ効果を意図したと看做すべき行為であり、極めてたちが悪い。それが精度に劣るGPSの数値だというからなおさらだ。
捜査情報の漏洩については、国会で次のような質問がなされたことがある。
捜査情報の漏洩に関する質問主意書(冒頭部の抜粋)
警察及び検察が捜査過程で入手する捜査情報は、適正な捜査の確保やプライバシー保護の観点から秘匿性が高いとされているが、近時、マスコミ報道からみてこうした捜査情報が漏洩されているのではないかと思われる事案が散見される。時には世論形成上、警察ないしは検察が意図的にリークしているのではないかとの疑いすら生じかねない事案もあり、看過できない。
かかる事態は警察及び検察の公平性及び公正性に疑念をもたらす重大な問題であり、この際、事実関係や政府解釈を確認する必要がある。
質問の核を構成する質問(上記リンク先の一と二)に対する回答は、「答弁を差し控えたい」とのゼロ回答だ。警察は、国会を相手にしていないのだろう。
テレビの品格
近代国家においては、治安維持のために、犯罪を為した者は罰せられる。そこに少なからず見せしめの効果が期待されているものの、犯罪は裁判を経て特定され、懲罰を課すのは国家だ。このように段階を経ることによって、基本的人権が侵されない仕組みとなっている。それゆえ、一営利企業(テレビ局)が、公共の電波を使って私刑を助長するような情報を垂れ流すことは慎まなければならない。
まして、日本は治安維持を名目として警察が暴走した歴史を持つ。近年でも、松本サリン事件で報道被害を惹き起こしているからなおさらだ。
しかしながら、警察とマスメディア、特にテレビ局との癒着はもっと酷いものになるだろう。
情報バラエティというジャンルの『報道』
警察とマスメディアは、記者クラブによる報道統制によって、古くから持ちつ持たれつの関係である。また、昨今のテレビ局にとっては、警察が所管するパチスロ業界の広告がなくてはならないものとなっている。
そして、少し前なら酒井法子氏、今回の吉澤ひとみ氏など、法律違反の芸能人を長期的にさらし者にすることで、容易に視聴率を上げることができる。
警察にとっては、正義を演じる機会を得られるだけでなく、二次的な効果もある。それは、好感度を生命線とする芸能人たちが、自身の清廉さをアピールするために、さらし者となった芸能人を批判し、まるで警察の広告塔のような優等生発言をバラまくことだ。広告費の減少にともなう製作費の減少から、芸能人頼みのバラエティ番組が乱立する昨今のテレビにおいて、この傾向は顕著だ。
昨今、芸能人が好き勝手に各ニュースに自分の意見を添える「情報バラエティ」、それから司会者とコメンテーターによる「ニュース・バラエティ」という手法の『報道』があふれている。「ワイドショー」は「ニュース・バラエティ」の前身だといえる。これら『報道』に出演するコメンテーターは、知識人らしく振る舞うものの『テレビのお約束』をちゃんとわきまえている。
こうした『報道』は、ニュースをわかりやすく、あるいは、おもしろく見せるだけでなく、大した準備もせず、司会者と芸能人で尺が稼げるので、テレビ局にとって費用対効果に優れている。
そして、わかりやすいコメンテーターの解説や芸能人の感想が、世論に大きな影響をあたえることは言うまでもない。
つるし上げ報道の行く末
冒頭に挙げたとおり、報道機関が本来やってはいけない表現を、ことさら交通事故に関しては、平然かつ漫然とおこなっている。そして芸能人のケースにおいては、テレビを使った『市中引き廻しの刑』を行う。
このようにテレビが、権力にとって都合のいい報道ばかりをしているにもかかわらず、それを問題視する意見がほとんど見られないことに対し、恐怖を感じざるを得ない。
警察が提供する事件ネタをベースに、テレビで漫然と行われている『報道』は、かつてナチス・ドイツのヒトラーが『我が闘争』で発表した大衆操作の原則といみじくも一致しているからだ。違うのは、国営放送ではなく、民間放送が媒介の主役となっている点だ。
- テーマや標語を絞る
- あまり知性を要求しない
- 大衆の情緒的感受性を狙う
- 細部に立ち入らない
- 何千回と繰り返す
テレビ局は、インターネットに広告シェアを奪われた末、脱法産業であるパチスロ業界を段階的に受け入れた。パチスロ業界の広告を大きな収益源とし、それなしに経営の成り立たなくなったテレビ局に「善良な風俗を害しないこと(放送法第4条1項1号)」を期待しても無駄なのだろう。
事故を減らすための最善策
アスリート・ファースト
2018年、テレビの報道バラエティは、スポーツ界のパワハラの問題で尺を稼いでいる。管理する側の古い体質が、アスリート(管理される側)に悪影響を与えているというのが、識者に共通する見解だ。
そして、望ましい方法として紹介されているのは、アスリート・ファーストによる指導である。監督やコーチなど、指導する側が上から管理するのではなく、選手を自発性を尊重するやり方だ。
なお、しばしば指摘されているとおり、パワーハラスメントの問題は、スポーツ界だけの問題ではない。日本社会は、管理する側が管理される側を下に見る傾向が極めて強いのである。
警察ファーストの現実
道路交通における交通管理者(警察)は、今世紀に入ってからもずっとドライバーの管理を強めてきた。追い風に利用したのは、被害者団体や非運転者らの声だ。
しかしながら、そもそも事故を起こしたいドライバーなどひとりもいない。そして、すべてのドライバーが交通安全に対する自発的なモチベーションを持っている。
このドライバーのポジティブかつ自発的なモチベーションを害しているのが、交通規制に妥当性が感じられないにもかかわらず、それを公の場で口にできない息苦しさだ。恐怖に訴える論証を多用した警察広報の効果によって、異論を唱える余地がないのである。
ドライバー・ファーストの可能性
もし、交通規制とその取締りが道路ユーザーの納得するレベルになったなら―――
- 警察のいる場所いない場所で表裏を使い分ける必要がなくなるので、善悪の思考が健全化する。
- 理不尽で強制的な警察のコントロール下から自由となり、道路社会に自発的な秩序が育まれる。
- 規制よりも、その場その時に見合った運転をするようになり、事故が減少する。
これがドライバー・ファーストの効果である。なお、ここで示すファーストは、規制する前に規制される側の意見を聞くことを示す。自分が尊重されていることを自覚すると、人は自発的に動くものだ。同様に、道路ユーザーが道路社会の主体として尊重されれば、道路社会は道路ユーザーの自発力でうまくまわるものだ。私の知る限り、西欧では道路ユーザーの自発力がうまく機能している。日本は最低だ。
聞く耳さえ持たない交通管理者
残念な現実として、警察(交通管理者)は、ドライバーとライダー(管理される側)の声を聞くどころか、以下に示すとおり、聞く耳さえ持っていない。
他国に習えば、規制される側の声を代弁する作業はJAFが担うべきである。しかしながら、JAFは、日本道路交通情報センターと並ぶ警察庁の天下り先の双璧なので、警察の不利益につながる仕事はしない。
その一方、警察が影響力を強める作用を是とする〇×協会や△□協会は無数に存在する。
明らかな事故減少傾向に便乗しただけの厳罰化
そもそも、交通事故は、長期的な現象傾向にあった。また、自動車の安全性向上とインフラの整備は、確実に事故を減少させている。つまり、警察が何もしなくても、事故は減っていた。その傾向は、1990年台の後半頃から誰もが予見していたことだ。
警察は、統計を操作し、莫大な費用をかけることによって、技術の発展やインフラ向上による事故の減少を、警察の手柄であるかのように演出したに過ぎない。
そして、その原動力となったのは、恐怖に訴える論証を多用したプロパガンダである。媒体となっているのは、テレビやラジオといったマスメディアだけではない。全国のありとあらゆる道路で警察のプロパガンダが行われている。
ついでに書けば、道路における無数の警察広報には、ドライバーの支払う反則金収入が注がれている。
少し長いが、ぜひ読んでほしい。