闇の警察署長
警察署の署長には、相当な権限が委ねられている。しかし、芸能人の一日警察署長が脚光をあびることはあっても、警察署長本人が表舞台に出ることはほとんどない。また、警察署長が、地域の治安にかかわる権限をゆだねられた部署の長として、住民にビジョンや施策を語ることもない。
それどころか、警察署長がいったいどんな人なのかさえ広報されていない。これは各警察署毎にWEBサイトが作られるようになった今日でも変わらない。そこにあるのは警察署長の名前だけだ。
一方、欧米都市の警察署のWEBサイトでは、このように警察署長の写真と略歴、そしてビジョンが記されている。
諸外国では、警察署がビジョンを広報しているだけでなく、それを指揮する自治体の長が治安政策が明示され、そして実行に移されている。
代表的な例が1993年のニューヨーク。当時、市長となったジュリアーニ氏は街の浄化を宣言し、次々とそれを実行した。当初は「やり過ぎ」との批判もあったものの、後に彼の手腕は高く評価された。
日本の市長には、ジュリアーノ市長と同じことを行うことができない。なぜなら、日本の市長には、警察を指揮する権限がないからだ。そして、ニューヨークでは市長が持つ治安維持のための権限の多くを、日本では警察署長が握っている。
では、日本の警察署長は何をしているかというと、“本社”(都道府県警察本部)の指示を仰ぎ、「事なかれ主義」を貫徹しているに過ぎない。そして、表舞台に立つのは、交通安全運動期間に置かれる芸能人の1日警察署長ばかりだ。
警察署長が「事なかれ主義」に終始するのは、中央集権化された日本警察の組織構造が原因である。つまり日本の警察には、警察署単位で独自の施策を行う土壌がないのだ。視点をかえれば、都道府県警も「横並び施策」ばかりである。
それぞれの警察署が、“本社”の目より住民の目を意識するようになれば、「愛される警察」に変身することもできるはずだ。それもただ愛されるだけでなく、ニューヨーク市のように「治安の改善」という効果と、それに対する「評価」をも得ることができるのだ。
現在の日本の警察官は、“本社”(ひいては警察庁)の指揮の通りに動いて、住民に嫌われる一方であるように感じられてならない。
-追記-2016年5月
2016年4月より全国一斉にWEBサイト上で警察署長就任挨拶が公開されるようになった。