交通ルールは守れない

国家公安委員長の疑問

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歩行者の出てくる危険性もない道路
国家公安委員長の疑問

「安全な道路での制限速度20キロ超過を取り締まるのは疑問」

「取り締まりのための取り締まりになっている」

2013年6月4日、閣議後の記者会見における、こんな古屋圭司国家公安委員長の発言が報道された。古屋氏のfacebookで弁明としてリンクされた氏のブログを参照すると、発言の根本は、前日に行われた警察本部長会議での訓示にあるようだ。しかしながら、記者会見では、具体的な数値までを挙げてしまった。いわばを率直に言ってしまったわけだ。

「50km規制の道で70km出してよいのか?」

こんな論調の報道に対し、古屋氏は火消しに走らざるを得なくなった。交通事故の被害者団体らは、発言の撤回を求める抗議を行った。6月7日の記者会見、古屋氏は「20キロ超過は一つの例を言ったまで」とトーンダウンした。古屋氏がメールやフェイスブックの反応を「ほとんどが激励」と強調したのは、批判が多いことの裏返しだといえる。

6月18日、警察庁は、古谷委員長を主催者、筆頭委員を太田勝敏氏とする「交通事故抑止に資する取締り・速度規制等の在り方に関する懇談会」を召集した。懇談会は、速度違反取り締まりの在り方や速度規制の見直しについて検討し、2013年内をめどに報告書が古屋委員長に提出される予定となっている。 なお、筆頭委員の太田勝敏氏は、2006年(H18)から2009年(H21)までの3年間に渡って、警察庁が主催した「規制速度決定の在り方に関する調査研究」の委員長を務めた。そこでまとめられた太田報告書は、現在の速度規制の根源となるものである。(詳細は争点は速度の合理性と取り締まりの妥当性に記す)

根本的な問題は速度規制にある(取締りは2次的問題に過ぎない)

報道を見る限り、道路ユーザーの速度規制とその取り締まりに対する根強い不満が改善されるかのように感じるかもしれない。しかしながら、いつの間にか議論も報道も「取締りの在り方」に限定されており、結末は単に取り締まりの見直しに留まるはずだ。

懇談会→国家公安委員長→警察庁の発表予想

車両を誘導するスペースの必要から、速度取締りが限定された場所で行われる傾向があった。 今後は、新しい速度測定器の導入を通して、事故防止に効果的な場所で取り締まりを実施する。

懇談会が意見を提出し、警察庁が発表する改善内容の趣旨はこんなところだろう。警察への政治介入の影響が取り締まりに対してだけなら、警察の裁量でどうにでもなるからだ。一方、規制速度に影響が出ると、警察の裁量が小さくなってしまう。だから、警察にとっては、影響を取り締まりだけに留めたいという本音があるのだ。

懇談会の報告と警察庁の発表結果

2013年末に発表された懇談会の報告書は予想どおりであった。

おエラい先生方の懇談結果はさておき、取締りの在り方に問題があることは、日常的に運転する誰もが感じていることである。 誰もが感じていながら、誰も公の場所でそれを口にできないのは、悲惨な交通事故のアピールで警察活動を正当化するという恐怖に訴える論証を多用した警察広報がこの国に深く浸透しているからである。

しかしながら、見直すべきは取締りの在り方ではなく、速度規制である。交通規制が交通実態を反映し、道路ユーザーの納得するレベルに引き上げられたなら、交通取締りの執行部隊は、悪質性の高い違反だけを取り締まるようになるのである。その結果、『取締りの在り方』の問題は自然解消する。

速度規制が道路ユーザーの納得いくものになれば―――

  • 道路には合理的で円滑な流れが実現する。
  • 現実に規制を近づけるだけなので、事故は増えない。
  • 警察のいる場所いない場所で表裏を使い分ける必要がなくなるので、善悪の思考が健全化する。
  • 理不尽で強制的な警察のコントロール下から自由となり、道路社会に自発的な秩序が育まれる。

>>ロードシェアリング

取り締まりで交通安全は実現できない

警察広報における速度取り締まりの効果

「取り締まりによって交通安全が保たれている」

警察は、莫大な予算を投じて、数十年以上このような広報を続けている。 そして、警察白書にも同じ文句が毎年並んでいる。

「悪質性・危険性の高い違反に重点を置いた取締りに努めている」

なお、悪質性や危険性の高い違反取り締まったことを示すデータが添えられたことはない。 このように、警察広報上では、警察の大活躍によって、道路の安全が保たれていることになっている。しかしながら、これら警察広報は、多くのドライバーが日常的に目にする取締りとはまるで違っている。

そこで、本当に警察のいうように取り締まりで交通安全が実現するのかどうかを検証してみた。まず、警察が速度違反の取り締まりを行うのは、概ね流れのよい幹線道路である。幹線道路のなかには、高規格道路として整備された都道府県道や市町村道も含まれるが、道路延長のなかではそれは極一部に過ぎない。少なくとも、通学路や生活道路は含まれていない。 亀岡市登校中児童ら交通事故死事件の翌年、2013年3月、警察は、生活道路の速度規制をゾーン30と命名し、大々的に広報を行った。しかしながら、そこで取り締まりが行われないことをドライバーは経験的に知っている。また、警察広報上でも、ゾーン30で積極的な取り締まりを行うと明記されていない。

高速自動車国道 7,431.2km
一般国道小計 54,530.4km
都道府県道小計 129,328.9km
市町村道計 1,009,599.4km
合計 1,200,889.9km

右の表は、2013年(H25)10月16日の「交通事故抑止に資する取締り・速度規制等の在り方に関する懇談会」における資料自動車の走行速度と道路の設計速度・最高速度規制との関係(国土交通省)から抜粋したものだ。

前述のとおり、国土交通省の道路分類と警察が取り締まりを好む場所は直結していない。 しかし、取り締まりの多くは2車線以上の流れのよい道路で行われており、これらの道路は表の上方に分類されるものがほとんどだ。いうなれば、「を持つ道路」が速度取締りの主な舞台となっている。逆に、国道であっても、流れの悪い1車線道路は取り締まりの対象になっていない。

交通取り締まりの限界

亀岡の事故の翌年、2013年4月には、千葉県館山市と愛知県岡崎市で登校中の小学生の列に乗用車が突っ込む事故が相次いだ。さらに秋の全国交通安全運動期間中の同年9月には、京都府八幡市で同様の事故が起き、児童5人がけがをしたことから、9月24日、警察は全国一斉に通学路の取り締まりを行い、およそ1万人を検挙した。

京都の事故と警察の一斉取締りは大々的に報道された。(同じく秋の全国交通安全運動期間中、滋賀県近江八幡市で交通安全運動の準備に向かう警備員が、自転車に乗った老人をひき逃げした死亡事故はほとんど報道されなかった。)

百歩譲って、交通安全が警察の取り締まりによって維持されていると仮定しよう。はたして、警察が取り締まり対象となる道路を大きく増やして、速度取り締まりを効果的にすることができるのだろうか。「を持つ道路」を現実の国道とみなし、右上表に照らした場合、総延長は都道府県道の総延長は国道のおよそ7倍、市町村道の総延長は国道の18倍を超える。

総合的な交通安全施策ができない理由

諸外国の住宅街では、取り締まりに頼らず、ハンプトラフィックカーミングによる交通安全施策が実行されている。これらの道路構造物による施策より、ずっとひろく普及しているのは、郊外道路におけるラウンドアバウトと、市街道路における一方通行の積極的な採用である。

警察発表のラウンドアバウトラウンドアバウトは、進入するすべての車両が速度を落とす必要があり、走行速度の抑制に効果がある。また、信号待ちがないので、ドライバーにストレスを与えることもない。

ただし、ラウンドアバウトは、道路の構造そのものの変更を伴うため、市外地の既存道路への導入はまず不可能である。郊外であっても様々な条件が揃わなければ変更はできない。そもそも、道路構造令を変更しなければ、既存道路はもちろん、新規道路にも増えるわけがないのである。

それゆえ国土交通省は、実験レベルのラウンドアバウト(環状交差点)しか実施していない。それなのに警察庁は、まるで自分たちがラウンドアバウトを主導しているかのような報道を2014年9月1日に行なった

速度の抑制とは異なるが、ラウンドアバウトよりはるかに現実的で、かつ、歩行者と車両の双方の安全に大きな効果があるのは、一方通行(ワンウェイトラフィック)の積極的な採用だ。一方通行路は、対向車と向き合わう必要がなく、交差点の安全性は相互通行の比ではない。信号が不要または制御をシンプルにできるので、交通の円滑の面からも望ましい。歩行者も片側だけに気を配ればよいので、横断時の安全性が飛躍的に高まる。さらには、寂れゆくシャッター通りに賑わいを取り戻す起爆剤にもなり得るだろう。このように一方通行は良いことだらけだ。しかしこの国では、一方通行路の新規採用をどうやら止めてしまったようだ

異質な日本の交通行政

残念ながら、上記のように道路構造物の追加または道路構造そのもの変更、道路交通の抜本的な見直しを伴う交通安全施策は、日本では実現しないと言わざるを得ない。

なぜなら、外国では交通規制と道路構造の両方を地方自治のレベルの道路管理者が行い得るのに対し、日本では、道路管理者と交通管理者(警察)が縦割りで、しかも、地方ではなく中央、つまり霞ヶ関でそのほとんどが全国一律に決められているからだ。

道路の構造または道路構造物の変更を伴う交通安全施策、いわゆるハード面は国土交通省の所管である。一方、交通規制、つまりソフトの面は警察の所管となっている。そして、それぞれが自分たちの縄張りでしか物事を進めようとしないから、諸外国のような交通安全施策が実現できないのである。

霞ヶ関のレベルが縦割りで、それを地方が一律にやらされるのだから、いつまで経っても、地域の実情を反映した交通安全施策が実現することはないだろう。 そもそも、道路のソフト面とハード面という表裏一体で為すべき行政が、交通管理者(警察)と道路管理者(国交省)に縦割りされているのは日本だけだ。警察は、交通管理者として規制の実務を行いながら、一方では、司法行為としての捜査権、行政行為としての交通取締りの権限を持っている。さらには、運転の許認可権限までも握っている。このように警察に権力が集中することは、権力分立の観点から望ましいことではない。

警察の強制力はモラルを制約できない

本来、社会の秩序の柱となるのは、個々人の良識に基づいた行動である。誰だって、事故の当事者にはなりたくないし、規制がなくとも、安全に配慮した運転をしているものである。これらの考え方は、欧米諸国が85パーセンタイル速度をボーダーラインとする根本となっている。(詳細は85パーセンタイル速度と規制速度の関係で詳しく言及)

強制力はモラルを押しつぶす 一方、この国の警察は、警察力(強制力)で交通安全が成り立っているかのような広報を盛んに行っている。実勢速度を勘案することなく不当に低く設定された速度規制によって、多くのドライバーとライダーが日常的に法律違反を行っている。

これら法律違反に対し、警察官はいくらでも警察力(強制力)を執行できる。 この状態は、「警察消極の原則」と「警察比例の原則」から、完全に逸脱している。道路社会に限定すれば、この国はおぞましい警察国家になってしまっている、といっても過言ではないだろう。

ドライバーとライダーは、警察力(強制力)によって、本来持っている良識を抑圧され、その一部は、警察力の及ばない場所で発散される。 先に示したとおり、取締りで交通安全を実現することは不可能である。だから、行政法学は、「警察消極の原則」等、警察力を限定する原則を導いたのである。

これらの原則に基づいて、警察力は、悪質な違反者に対してのみ発動できるようにすべきである。そうすることによって、法律の権威が回復する。そして、人々は「何が違反なのか」ではなく、刻々と移り変わる道路状況に見合ったアクションを自ら選択するようになる。その結果、弱者に配慮し、お互いを尊重し合える成熟した道路社会が育まれるはずだ。

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