行政事件訴訟弁論2回目

行政事件訴訟弁論2回目

本件取締りにおいては、刑事事件と行政事件(処分取消し請求)、それから国家賠償事件(提訴予定)の3つの裁判が行われる。これら3種類の裁判の現状は、それぞれが問題を抱えている。共通する問題は、法律の目的に対する裁判の効果である。本投稿は、行政事件に関するものであるが、刑事事件における問題を中心に述べる。

裁判は本当に公開されているのか?

裁判所の手続きを国民の監視下におくことによって、司法の公正な運用を補償するために裁判は公開され、誰もが傍聴できる。しかし、本当に裁判は公開されているといえるのだろうか。

『弁論主義』を掲げていながら、実際には、準備書面という書類のやり取りが行われ、出廷した訴訟関係人は「準備書面の通りです」と言うだけだ。いったい何が弁論されたのかは、傍聴しても分かりやしない。

刑事裁判においては、国家が収集した証拠を検察が保有し、その中から有罪にするために必要な証拠をセレクトして法廷に提出する。一方、被告人の弁護士は一般の人よりはアクセスできる情報は多いものの、強制的な方法さえ許される捜査機関の権限に比較すると、力の差は歴然としている。

現在、全証拠開示が検察に突きつけられている。そうなった原因は、取調べの可視化がなされていないことと併せて、検察が証拠を独占することが冤罪の温床となっているからだ。

ところで、全証拠開示のテーマ以外に、証拠の扱いに関する大きな問題がある。それは弁護士と打合せ3回目にも示したとおり、被告人側が用意した証拠を、検察が理由なく不同意にできることだ。もちろん、互いの証拠に対し、それぞれ同意/不同意の意見を言える点は平等である。しかし、検察の証拠を被告側が不同意としても、刑事訴訟法第323条によって、検察が提出する証拠は常に採用される。一方、被告人側の証拠に検察が不同意した場合、裁判所は慣例的にほとんど不採用としている。こんな不公平が条文化されているのに、それが問題として取り上げられた形跡は残念ながら見つけられない。

私の経験と高知白バイ事件の推移を読む限り、被告人側が一縷の望みを託して提出した証拠も、検察は理由を沿えずに不同意し、そして、裁判官は、検察が不同意した証拠を不採用にして放置している。こうした作業が当然のように行われ、法曹関係者は誰もそのことに問題を感じていない。その結果が99%を超える有罪率である。

「事実の認定は証拠による」

平野氏の書籍

刑事訴訟法第317条に条文化されたこの規定により、証拠のない事実を裁判所が認定することはない。これに裁判官が実施する証拠の取捨選択を足し、法曹関係者の“お約束”を無視して一般的な言葉にすると「裁判所の認定する事実は、裁判官が取捨選択した証拠に基づく」となる。

「日本の裁判所は有罪を認定するだけの所である」

平野龍一氏が裁判所を痛烈に批判してから既に30余年が経つが、司法の根本はなにも変わっていない。

形だけの対審

カタチだけの対審検察と被告側に圧倒的な力の差があり、刑訴法第317条に事実上の公務員無謬(むびゅう)が条文化され、事実として裁判官が不公平な証拠の取捨選択を行っているにも係らず、法廷には、検察と被告がまるで対等であるかのように席が配置される。

「裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ。」

日本国憲法第82条に規定された『対審』が法廷における席位置の根拠である。ただ席位置を対等に見せただけで、裁判官らの双方の証拠の扱い方は、とうてい『対等』とはいえない。

法廷のなかだけの審理

刑事訴訟で弁護士と打ち合わせをしている際に気付かされたこととして、裁判官は法廷に出される書類と人証だけを材料にして判決を行う。

交通違反者が「規制と取締りがおかしい」と裁判所に申立てる。同じ違反の刑事被告人としては、罰を嫌って行儀良くしても、ふたつの裁判における違反者の2面性を裁判官が指摘することはないらしい。

宣 誓

良心に従って真実を述べ、
何事も隠さず、
偽りを述べないことを誓います。

それなら、裁判官の前では、損得勘定に基づく供述を行い、一歩法廷を出れば、ペロリと舌を出す刑事被告人がいるのは当然だろう。そうすると、キリスト教徒でもないのに、宣誓をさせられることが滑稽にさえ思えてくる。

拷問まがいのやり方で自白を共用してきたことが冤罪を生む第一の要因とされているが、供述調書あるいは人証を大きな判断材料としている点は、裁判所も同じなのである。

裁判官の仕事量の限界を考えれば、法廷内だけの情報で処理するのは、仕方のないことかもしれない。しかしながら、そんな上っ面の材料だけで司法判断が行われているのなら、聖者然とした裁判官の権威演出はやり過ぎだろう。

また、単なる「裁判所の認定」を「事実」として扱うだけの無批判な報道は、権力暴走制御システムが機能不全に陥ることを幇助してきたといってよいだろう。

事件の報道を織り込んで計画・実行される犯罪を『劇場型犯罪』という。一方、刑事事件に対し開催される法廷は『裁判劇場』そのものであるとの評価を禁じえない。

裁判傍聴に通う人々

本来、裁判が公開される目的は「司法の公正な運用」を補償するためである。それなら、傍聴人は裁判所が公正な判断をしているのかどうかに対し、先ず目を向けなければならない。

しかしながら、前述のとおり、法廷で事実認定プロセスの多くは見えない。見えるのは、勇ましい検察の冒頭陳述と損得勘定に基づく関係者の供述程度だ。

そして、多くの傍聴人が見たがるのは、裏窓趣味な事件ばかりだ。大事件はさておき、芸能人が関わる事件、わいせつ事件ばかりに傍聴人が集まる現実が「司法の公正な運用」に寄与するわけがないのである。

そうして『裁判劇場』は今日も公開され、そこで何を見たいのか、傍聴人の品格が問われている。

行政事件弁論2回目

法廷に入ると、同じ時刻に同じ法廷でふたつの行政事件が行われる予定となっていることに気付いた。そして、私の事件が2番手であることを書記官から告げられた。私は、追加の書類を提出し、原告席の後ろの傍聴席に座った。

ひとつ目の事件では、弁護士らしき2人が原告席に座り、うち一人は「なんで傍聴人がいるんだろう…」といった顔で傍聴席を不思議そうに見回した。10分足らずでその裁判は終了し、書記官が私に原告席への席移動をうながした。

私は原告席に座っても、前回同様、傍聴席には目を配らなかった。おそらく、傍聴人は5人以上8人以内だったのではないかと思う。

被告人席に座った神奈川県警の警察官は、準備書面(1)を陳述した。といっても、法廷では「陳述する」というだけだ。

裁判官は、証拠の扱いに関して、双方にいくつかの質問をした後、私に第1回目の弁論で提出し、口頭で陳述するつもりだった意見陳述書を読み上げてよいことことを告げた。

意見陳述書は、私の事件に興味を持って法廷に来てくれた人に読み聞かせるつもりで書いたもので、ベースは「事故多発!」のプロパガンダである。

5分位と裁判官に釘を刺されていたので、早口となったが、人の肉声は活字よりも人の心に響くものだ。それは傍聴人に対してはもちろんのこと、裁判官に対しても効果があるはずである。

なお、裁判所の夏休みの関係もあって、次回期日は9月23日となった。ただし、免停期間は終了しているので、その回で「回復すべき利益がない」という理由で結審されてしまうのは間違いないだろう。

閉廷後、私は併合を求める予定の国家賠償請求に関する手続きを聞くため、10階に足を運んだ。

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執筆者プロフィール

野村 一也
ライター
 創世カウンシル代表

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