見せしめ主義の刑事司法

無辜(むこ)の不処罰

たとえ十人の真犯人を逃したとしても、一人の罪のない者を処罰してはならない

無辜(むこ)とは罪のない人を示し、『無辜の不処罰』という法諺(法律に関する格言)は、近代刑事手続きの原点を示している。

たとえ十人の冤罪を生み出すことがあっても、誰かが処罰されなければならない

日本の刑事司法は、こうした言わば『見せしめ主義』で運用されている。罪のない人であっても、それを罪人として処罰することによって、見せしめによる抑止効果が期待できるのである。ただし、それを刑事司法関係者が自ら認めることはない。

2014年3月、一般大衆のほとんどが興味を持たないこの問題が、問題としてメディアに露出した。袴田死刑囚(当時)が、再審決定と同時に拘置の停止を受け、逮捕から48年ぶりに釈放されたからだ。
「拘置の続行は耐え難いほど正義に反する」

判決を出した静岡地裁の村山浩昭裁判長らは、こう拘置停止の理由を挙げた。

対する検察は、村山裁判長らの決定を不服として、同月中に即時抗告を行なった。その結果、開始される再審請求抗告審を担当するのは、本件刑事訴訟控訴審を担当する裁判体と同じ東京高等裁判所第8刑事部の大島隆明裁判長らである。

大島裁判長は、横浜事件の再審請求を認めたことで知られている。そして、「絶望の裁判所(瀬木比呂志氏)」「有罪を認定するだけの所(平野龍一氏)」の壇上に立つ裁判官(森炎氏のいう「司法囚人」)にあっては、まともな裁判官として評価されている。

なお、袴田事件では、証拠に公正な評価がなされていれば、もっと早い段階で無罪になっていたといわれている。

本件刑事事件控訴審3回目

本件控訴審において、東京高裁第8刑事部の大島裁判長は、被告人の権利を尊重してくれてはいるものの、どうやら検察支持に大筋を決めたようだ。そう思う理由は、私が請求(裁判所に提出)した証拠に対しては、検察官の「必要性がない」だけでことごとく不採用とし、たった一言も検察官に同意を促すことはなかった。一方、検察官が請求(裁判所に提出)した証拠に対しては、やたらと同意を求めてくるからだ。

そんな大島裁判長の対応に大きな不満があって、(被告人)控訴趣意補充書を提出した。しかし、控訴審公判3回目での大島裁判長の論調は、検察官の証拠で事実を構成したいことに変わりはなさそうだ。

刑訴法317条に「証拠の証明力は、裁判官の自由な判断に委ねる」と規定されているものの、自由に判断していいものと悪いものがある。

もし大島裁判長に公正な証拠評価をさせることができなかったとしても、いずれ刑事司法制度に改革を求める声は大きくなる。そのときに、現在の制度と運用の問題を考える材料として、本件訴訟の経緯を残したい。

道路における見せしめ主義

48年間も無実の罪で投獄され、人生を失った人が報道されても、一般大衆のほとんどにとって、それは他人事である。しかしながら、同じようなことを、一般大衆の多くが体験している。それが交通取締りである。

警察広報や公共メディアの報道、そして裁判所の判断はさておき、多くの道路で速度規制は絵空事と化している。恐怖に訴える警察広報によって、誰も本当のことが言えず、「公の事実」にならないだけだ。

そして、経験ある道路ユーザーに「(速度違反は)捕まる方がバカ」と言われるのは、速度違反の取締りが、決まった時間帯に、事故が多いとは思えない「いつもの場所」ばかりで行なわれているからだ。

pict_lionpict_zebraそんな取締りに捕まるのは、警察の漁り場を知らない地元外の者や状況把握力に劣る女性、それから、警察の手口を知らない運転経験の浅い若年者ばかりだ。例えるなら、権力という牙を持つライオンが、シマウマの子供ばかりを狙っているようなものだ。

こうした正義のない速度取締りが行われる原因は、取締りにノルマがあることと、規制速度が低すぎるからだ。

被4で示したとおり、神奈川県警察は、執行部隊別に違反種別ごとの検挙目標(いわゆるノルマ)を課している。そして、速度取締りは、規制と現実がかけ離れた路線や区間ばかりで行なわれている。ただし、警察が路線毎の検挙数と執行部隊別のノルマを明らかにしないため、私は、弱肉強食の取締り傾向を立証することはできない。

なお、本件控訴審における大島裁判長は、検察官の「いずれも必要がない」の一言に便乗し、被4を不採用としている。このことは、弱肉強食の取締り傾向はおろか、取締りノルマの存在そのものを否定したことになる。

「事実の認定は証拠による」

刑事訴訟法第317条に条文化されたこの規定により、証拠のない事実を裁判所が認定することはない。証拠を請求(裁判所に提出)しても、裁判官の安易な不採用が、事実を闇に葬るのである。

大きな網と警察力のターゲット

警察力のターゲット現実を勘案することなく、低い規制速度を設定すれば、危険性の低い運転に対しても、警察力を行使できるようになる。これが大きな網の効果だ。

大きな網によって、可罰的違法性のボーダーラインは押し下げられる。ドライバーが大きな理不尽さを感じる取締りさえ、「法に則っている」という方便がお墨付きとなるわけである。

そうして、車両運転者らは、流れに乗る程度の速度で走行していても、検挙対象とされることになる。

ノルマに追われる警察官は、規制と実態がかけ離れた場所、すなわち、検挙数を稼ぎやすい場所ばかりで取締りをおこなう。

ガゼルの成獣そんな取締りに経験豊富な地元のドライバーとライダーが捕まることはない。また、本当に悪質な交通違反の常習者が捕まることもない。例えるなら、ライオンがシマウマの子供ばかりを狙っていることを知っているガゼルの成獣と同じだ。

そして、権力という牙を持つライオンが、シマウマの子供でお腹いっぱいになるなら、捕獲が困難な大きなヌーや、足の速いガゼルの成獣を、あえてターゲットにする動機は生じない。その結果、検挙が容易な、悪質性の低い違反ばかりが検挙され、悪質性の高い違反は野放しとなる。

社会の問題に関心のない人々

『 無辜(むこ)の不処罰』に背を向け、『見せしめ主義』で対処することは、一人の極悪人を罰するために仕方がない、と看過されがちである。自分が無実の罪で罰せられる十人の一人になるとは、だれも想像しないからだ。

原付バイクはカモだった一方、交通違反に対する『見せしめ主義』で罰せられるのは、大きな網によって悪者にされたシマウマの子供やカモばかりだ。賢い成獣は、ライオンやオオカミの狩りの手口を知っているから、捕獲されることはほとんどない。

そんな弱きをくじくような取締りが事故防止に資することことがないにもかかわらず、「取締りの効果で事故が減った」と大々的に広報し、集めた反則金で天下り団体がボロ儲けしている。

その一方、「交通取締り」が行政行為なのに、常に「犯罪捜査に支障をおよぼすおそれ」を盾にして、具体的な取締りの成果(どこで何を取締ったのか)は秘匿されている。

つまり、刑事司法のシールド下で、阿漕(あこぎ)な金権行政が行われているのである。警察が正義を演じるためのプロパガンダで、悪者扱いされるドライバーとライダーはたまったものではない。

ただし、問題はドライバーとライダー側にもある。「自分は捕まらない」と現状を容認する者が、決して少なくないことだ。権力の牙にかかる弱者を、「捕まるバカ」と笑って見ているのである。

同様に、無実の罪で48年もの間、自由を奪われたことが濃厚な袴田氏のケースに対しても、世論といえるような動きは起きていない。

袴田事件の再審請求抗告審もそろそろ始まるはずだ。メディアの扱い方とその反応に注目したい。

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執筆者プロフィール

野村 一也
ライター
 創世カウンシル代表

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